56. 院内学級の誕生日会
S病院に転院して 3週間程経って長女の誕生日が来た。
放射線治療が 始まったばかりだったので、家に帰ることは出来なかったが看護師さんに呼ばれ ホールに行くと全員の看護師さんと 医師がいて院内学級のお友達や 小さな子たちお母さん方もいてみんなで お祝い🎉をして下さった
頂いた バースデーカード
お祝いして頂きながら来年は 10歳の誕生日は 迎えられるのかを考えてしまい嬉しさと 不安で 涙が溢れた。 長女は ずーっと照れ笑いしていた。
57. ずーっと一緒にいたいから退職を決意
病院🏥で長女の病気の再宣告を受け私は やっと 決意した。
仕事は辞めて長女と ずっと一緒にいる!
長女は 病気の為に不安や パニックという症状があったので、
私「ママ お仕事辞めて ずーっと一緒にいる事にしたよ!」そう伝えると 安心したようで
長女「良かった〜 でも うち 更に貧乏になっちゃうね!」と言っていた。
私は次女を出産後、仕事に復帰するか悩んでいた。
長女の扁桃腺炎が頻繁だったこととアレルギー体質の為に季節の変わり目には必ず体調を崩していたから。
でも 長女「ママ お仕事して のんちゃんを旅行✈️に連れて行って‼️」そう言われたこともあり、私は仕事に復帰した。
長女は
この海が大好きだった。
この場所ならアレルギー症状が出ず、元気に過ごせていた。
だから、あの海が大好きだった。
元気な子として 唯一 過ごせた場所だから。
私「のんちゃん(長女)が 元気になったら 近所の保育園で 働くよ。」
長女「うん!」と言っていた。
病気がわかる前私の帰宅時間が少しでも 遅れると
長女「ママが死んじゃったかも!」と 泣き叫び不安でパニックになっていた。
それは長女の腫瘍ができている部分が関係していた。
全く気付かず怒ってしまった事もあった。
長女のせいじゃないのに。
再宣告を受けた日に主治医にお願いして職場に提出する 診断書を書いて貰うようお願いをした。
診断書を提出する前に自分の口から 説明しなくては!
そう思って職場に電話☎️をした。
園長先生に変わって貰うと園長先生「どう?」
優しい園長先生がいつも以上に 優しい声で聞いてくださった。
涙が溢れた。
泣きながら、ご迷惑をお掛けしてる事を お詫びし長女の病名 病状 そして今後の経過を知らせた。
園長先生は まさに 言葉にならなかった。
園長先生「えぇ!何で・・・。」と言葉を失っていた。
そして私「長女の側に ずっと一緒に居たいので、 仕事は辞めさせて頂きたいと思います。」
園長先生「ずっと一緒に居たい気持ちは わかるけど、お給料は出ないけど、看護休暇は 診断書を出して貰えれば ずーっと 取れるから。」と引き止めてくださった。
私「万が一 長女に奇跡が起きたとしても脳に大きなダメージがあるので、後遺症が残ります。一人では 残しておけません。ずっと 私が側に居ないといけないと思います。次に 私が出勤できるのは 長女が亡くなった時です。
その時を 待ちたくないんです。
職場に迷惑を掛けていると思うと 早く仕事に行かなくては! って思ってしまうので。」なんとか 伝えた。
伝えられた。
園長先生「気持ちは わかりました。こっちの事は 心配しないで お嬢さんの事だけ考えて 先生も 体に気をつけてね。」そう言って下さった。
園長先生には沢山ご迷惑をお掛けし沢山優しくして頂いたのに何一つ 恩返しできなかった。
ーーーーー追記ーーーーー
先日「なんで仕事を辞めたのですか? 私も辞めたいと思うこともあるけど、 色々なことを考えたら 辞められません」というような内容のメッセージを頂きました。
メッセージを下さった方は 当時の私と同じ保育士さんの方でした。
私も次女の産休明けに色々考えて復帰しました。
もし長女が病気にならなかったら今も辞めていなかったと思います。
あの時の私にとって 長女との時間以上に大切なものはありませんでした。
あの時仕事を辞めたことを後悔はしていません。
ただ、職場の方や保護者の皆様に沢山 ご迷惑をお掛けし、そのままになってしまった事は今も申し訳なかったと思っています。
昨夜三女が飾ってくれました。「のんちゃんがよく見える所に❣️」と。
頑張っている皆様にサンタさんがプレゼント🎁を持ってきてくれますように。
Merry Xmas
58. リハビリ再開
放射線治療と共に リハビリが始まった。都内の医大でも リハビリをしていた長女
動かしにくい 麻痺した右側のリハビリが大嫌いだったがS病院のリハビリの先生は 長女の好きな事 → 製作、苦手な事 → 運動というのを よく聞いて下さって長女の好きな事から 始めて下さった。
お弁当箱に色を塗って切ったおかずを入れる。
長女病室に戻っても一生懸命 やってました。が、右手が思うように 動かない。
病室に戻ると イライラし始め長女「ママが 切って! ママが 塗って!」
私も 脳梗塞になった時リハビリして 思うように動かない 左側にすごいイライラしたので、長女の気持ちがよくわかる。
しかも 長女は私と 比べものにならない程の重症。
お弁当箱の リハビリは仲良く 一緒に 作りました。 色味も こだわって!今では 良い思い出です。
59. 外出許可
放射線治療が始まって 1ヶ月程した頃週末の 外出許可が出た。
自宅までは 往復3時間それでも 長女は 楽しみにしていた。
指折り数えて外出日には 何をしようか考えて ウキウキしていた。
外出日には夫の迎えを 首を長くして待ち、長女「遅いよ!」半分 怒りながら 車に乗ったのですが、途中で 気分が悪くなってしまった。
当時の車は ブレーキに独特の癖があり丁寧!とは言い難い 夫の運転では酔ってしまったのだろう。
自宅に着いても 気分は良くならず、
長女「病院に 戻りたい。」早めに 病院に戻った。
病院に戻ると 安心したのか直ぐに 気分が良くなり 食欲も戻った。
翌週は 外泊の許可が出て 自宅に一泊したがやはり 前の週と同じように 帰宅中に気分悪くなり、自宅で吐いてしまった。吐いた後は スッキリしたようだったが、病院に戻ると
長女「やっぱり 病院の方が 安心する〜!」と言っていた。
不安が大きく気分が悪くなっていたのだろう。それ以降乗り物酔い用の薬を飲むようにした。それでも長女「病院の院内学級に行ってる方が 楽しい!」
週末は 院内学級が始まるのを楽しみにしていた。
院内学級で描いたピアノの絵麻痺で 真っ直ぐの線が 描けなかった
60. 楽しみにしていた七五三の写真も
入院中 長女には楽しみにしていた事があった。
入院 数週間前に長男と 次女の 七五三で 撮ったドレス姿や 着物姿の 写真を見ること。
初めての外出の時に長女「来週までに 写真 貰って来てね!」楽しみにしていた。
しかし ステロイド剤の デカドロンをマックス量 飲んでいた 長女は副作用の ムーンフェイスと共に食欲が増加し 別人のようにパンパンになっていた。
鏡を見ては 落ち込む日々。
私「今は 薬飲んでるからだよ! 放射線治療が進めば 少しずつ 減らすって言ってたよ!」
長女を慰めてる言葉を いつも掛けていた。
可愛いものが大好きな 9歳の女の子にはまん丸 パンパンになってしまった姿は 受け入れられなかった。
私は長女が 好きなものを食べている時のまん丸の笑顔が 大好きだった。
でも 数週間前の元気な姿の写真を 見て今の現状を 受け入れられるのか 不安しか無かった。
コメント